素人ソフィストの脳内

考え事、たまに趣味

政治論

ごっつお久しぶりです。
だらだらしてたところに課題が一気に舞い込んできて萎えてる素人ソフィストです。
久しぶりに文章書きたいなという衝動で舞い戻ってきました。
半年ぶりですね。

ところで明日選挙あります。
忙しいとか面倒とかはありますが、発想を変えて私は運動がてら行ってこようと思います(体重も過去最高になってしまいましたので泣)。
皆さんも是非ね。
選挙行かずに政治に文句いう資格はないですからね…。

ところでどのような人に政治をしてほしいですか?
私はシンプルで2つだけです。
1つは金遣いが上手い人、もう1つは政策のバランスがとれる人、これだけです。

私は政治に関しても素人ですが、政府の大きな役割は税の運用だと思ってます。
他の国では消費税はもっと高いのに日本の方が不満が大きいのは税の使い方に問題があるのではないでしょうか?
私がぱっと浮かぶのはギャンブルよりも医療とか福祉、教育とかにもっと使うことですかね。
もっと生活になくてはならないものにお金を使うべきということです。

それから今回コロナで経済と生命が対立したと思います。
あるいは経済の自由を重視するあまり格差が広がり続ける新自由主義だったりが出てきていますね。
そのような対立する利益においてバランスをとれるようにするのが大事なのではないでしょうか?
時にはそれが中途半端になり、どちらの利益も得られないということもあるかもしれませんが、偏ることによって問題が生じるのが明らかである以上まずはバランスが大事だと考えます。

ちなみに私は菅政権は結果的には成功だったと思いますが、皆さんはどうお考えでしょうか?

とは言ってもじゃあ誰がそれをできるんだいというのがわからずに悩んでいます。例えば消費税をなくしてもどこでそれを賄うんだいというのが公言されてないんです。結局どこかが減ればどこかが増え、逆もしかりなのが財政です。法人税を上げるのはひとつの案かもしれませんが、これもやり過ぎれば企業が発達しようとしなくなるとか免れようとするとか問題が生じてきます。だから私は政治は金の使い方とバランスだと考えるわけです。

ほんで誰に投票しましょうかね。
考えてみます。

追記
私は政治について全くわからないのに偉そうなことを言ってみました。不快に思われた方は申し訳ないのですが、ご指摘くださるとありがたいです。詳しくない方も興味がある方は是非議論しましょう。

仕事論 前編

どうも、素人ソフィストです。
今回はですね、私の仕事論を語ってみたいなと思っております。

まず、最近大学のゼミで福沢諭吉について調べて発表したのですが、そのときに福沢諭吉著作集を中心とした文献をいくつか調査しました。論文も幾つか調べたのですがその際に使ったのがjstageです。学生の読者がいたら(私も学生ですが)jstageやcinii、google scholarといったサイトで論文を探して引用や参照すると課題の内容が深まりますのでオススメです。

話を戻しますが天は人の上に人を作らずで有名な学問のすすめで次のような記述がありました。

人は生まれながらにして貴賤貧富の別なし。
唯学問を勤て物事をよく知る者は貴人となり、
無学なる者は貧人となり下人となるなり。
福沢諭吉著作集 第3巻』6~7頁より引用

つまり福沢諭吉は生まれながらにして身分の差はないがその後の学問や商売で人の貧富が決まると述べているのである。正しいと感じる方も多くいらっしゃるかもしれませんが、私はそうは思いません。私は頭のよさや職業の難易度が人間を決めるとは思わないのです。確かに頭のいい人とかで稼いでいる人はすごいと思いますが、ただ人間や仕事をそれだけで判断できないはずです。頭がよくて金持ちだけど犯罪を犯したり、人を傷つけたりする人を貴人と言えるでしょうか。

そして本題はこの仕事についてです。仕事には稼げるもの、稼げないものがあります。医者とかは命を扱うわけだし特に責任も大きいことでしょう。しかし、どの仕事も人間を支えていることには間違いありません。医者だけで世の中成り立ちますか。衣食住はどうしますか。また衣食住を作る人はもちろんですが、それを売る人も必要でしょう。風俗だって例外もあるかもしれませんが、客の心を満たしている素晴らしい仕事だと感じます。つまり様々な財やサービスを生産し分配する者がいてこそ世の中成り立っていると思います。

繰り返しになりますが、責任や動くお金、対象となる人の多少はあっても人の役に立っていることに変わりはないのではないでしょうか。ただ、仕事の種類は問わずとも仕事への態度に人間の差は出ると思います。業種より仕事への取り組み方が重要という考えについては次回語らせて頂きます。次回がどちらかというと本題という感じかもしれません。ではまた。

追記
最近人の相談に乗ってみたいなと思うことがあります。下ネタでも下らない悩みでもあっさり返すかもしれませんがなんか相談募集してみようかなと。もしよければコメントしてくださると嬉しいです。

無駄も含めて人生です

小学生の頃、ある先生にこう言われたのを思い出した。

「ノートは余裕を持ってけちらずに書きなさい。」

その言葉を忘れて今は詰め詰めで書いているが、確かに余白があった方が綺麗には見える。

人生もそうなのだろうか。最近再び物事へのモチベーションが下がりつつあり、だらだらと過ごす時間が増えてきたように思える。

然し、多少の余白が必要なように多少の無駄な時間も必要なのではないだろうか。誘惑に負けてだらけてしまうこともあるだろうが、だらけた自分を責めるのではなく、だらけた分頑張りましょうと自分を鼓舞すればよい。

物事はそのように進めればいい。失敗したことや無駄になったことを責めたり罪の意識を感じるのではなく、これからどうすればよいか、どのように挽回するかを考えて次の行動に行くのである。その失敗や無駄をも含めて人生である。

追記
お久しぶりです。またちょくちょく書きます。

死後の世界をこう信じたい

「人って死んだらどうなるのだろうか」

私は前々から疑問に思っていた。私の中では3通りの答えがある。1つ目は死んだ後は無であるという考え、2つ目は極楽浄土のような別世界に行くという考え、最後は違う生き物に生まれ変わるという考えである。

友人の鋭楽はここがゲームのような世界であり、死はすなわちエンディングなので終わればプレイヤーの世界に戻るという考えを幼い頃に持っていたという。たとえるなら昨年上映された「ドラゴンクエスト your story」のような結末である。詳細はビデオ屋かどこかでレンタルして確かめてほしい。確かに興味深いがもしそれが本当だったとしたら我々は何も知らず見ず知らずの誰かに操作されているということであり、少しぞっとする。ちなみにもう一人の友人の待静には適当に受け流され、そこそこ真剣に話していた私は少々苛立ちを感じた。

ところで私は3つの中で2番目を信じたいと思うようになった。まず、1番目の無は想像できないため、あまり信じていない。そして3番目の転生は最近の自分の生活が充実しているように感じ始めたため、信じたくない。確かに自分より優れた人や容姿がいい人、恵まれている人はいくらでもいるし、そういう人に生まれ変わりたいと思うこともある。でも今のままでも十分恵まれているし、楽しいしこのアイデンティティーのままでいたいと思える。そう思えるようになった理由は目標を見つけ、それを達成するための努力に有意義なものを見いだしているからではないだろうか。

そして別世界を信じたい何よりもの理由がうちの愛犬の絹氏である。前回確実に年を取りつつある絹氏への想いを書いたのでそちらも目を通してくださるとありがたい。そこで書いたこととは反対に現実はいくら望んでもいつかは絹氏もこの世を去る。もし、1番目と3番目の死後の世界を信じてしまったら永遠に絹氏に会えなくなる。そうなれば絹氏がいない世界で私は真っ直ぐ生きていけない。2番目の別世界を信じれば絹氏に数十年待てば会えるかもしれない。もし、私も亡くなった後に別世界に行けて絹氏に会えたら、永遠の時を一緒に旅したい。絹氏を連れて色々な人と話をして永い時を過ごしたい。そう信じて心の準備をしようと思う。

追記
記事で書くことは一部実際のことをアレンジしているのですが、最近充実し始めたのは本当のことであり、やはり目標を見つけてそのために行動すると満たされるんですよね。他人と比較するのではなく自分なりの目標を達成していく人生にしたいと思っております。

愛犬絹氏へ

最近、うちの愛犬の絹氏がボケてきた。すすり泣きが増え、朝早くに起こしてくるようになった。また、最近はしばしば吐くこともあり、検査もしたが異常はなかったので一安心だ。

絹氏は私が5歳の頃にうちに来た。今はもう14歳ですっかり老犬である。若い頃のやんちゃさはなくなり、落ち着いているが、スイッチが入るとソファーをガリガリしたり(うちではそれを絹氏の筋トレと言っている)、狂暴になったりする。そしてなりより食欲が全く衰えていないのが救いである。

私のうちでは以前にもう一匹犬を飼っていたが、17歳で亡くなった。長生きな方ではあるが、亡くなったときはもう少し優しくしてあげればよかったと後悔の涙が止まらなかった。だから、絹氏がこうなるのも分かっていたし、そうなっても後悔しないように優しくしようとしても絹氏がうるさいときには苛立ってしまうこともあった。

たとえ後悔しないように接していてもいなくなったときを想像すると耐えられない。できることはした、後悔はないとなるとは思えない。笑顔で見送れるとは到底思えない。無理だとはわかっているが、ずっと一緒にいてほしい。

よく、終わりがあるから価値がある、美しいと言われるが、そんなことはどうでもよい。価値がなくてもいい、美しくなくてもいい、だからいつまでもただ一緒にいてほしい。たまに怒ってしまうけど一緒にいてくれるだけで私は幸せになれる。散歩も行くし、ご飯もあげるし、ソファーが傷つくのであまりしてほしくはないが、そばにいてくれるのなら筋トレも自由にさせてあげるし。私もできることはして絹氏に幸せになってもらいたい。だから、どうかずっと一緒にいてほしい。それが私の小さくも最大のわがままである。

続・肉を使わずに美味しい料理は作れるのか

どうも、素人ソフィストです。
皆さん如何お過ごしでしょうか?
ここ最近何も書いていないなぁと思い、何か書いてみました。簿記の試験についての続きを書こうかとも思ったのですが、もう書きたいことは前の投稿で十分書いたしもういいかなぁと。

そこで今回は先々週くらいに作った肉を使わない料理をまた作ったので載せてみます。以前にも料理の投稿をしたので併せてご覧ください。

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・生姜ときのこのご飯
・だし巻き玉子 黒豆
・闇鍋風
・野菜の天ぷら
・豆腐のステーキ

こんな感じです。レシピについては面倒臭いしあまり需要もないだろうし省略致します。

それではこれでAu revoir

追記
最近本当にいいことも悪いことも色々あって追記に書ききれません。近日それについて書いていこうかなと思ってます。とりあえず、明日のゼミの面接頑張ってきます。

醜い野心から資格を取りました

どうも、素人ソフィストです。
皆さん如何お過ごしでしょうか。
私は2日に1回はできるだけ更新し、他の方々の記事に目を通すのを目安にしているのですが、少々忙しくできませんでした。

そして本日用を済ませ、再び記事を書いております。その用というのが資格試験です。簿記2級のネット試験に向けて勉強しており、本日試験当日でした。結果はギリギリ合格、合格点70点の72点でした……。危ない危ない。

1、2年程前に簿記に出会い、初めは訳もわからずとりあえず買ったテキストを眺めていました。何回か繰り返し読み、ある程度わかったところで大学で簿記の授業を履修しました。やっぱ少し読んでいるだけでも授業の理解度が全く違いました。完全に理解できるわけじゃないけど他の教科に比べてあまり勉強しなくてもある程度わかりました。また、その授業でかなり根本的なところを見落としていることにも気付き、授業でさらに理解を深めました。

それからここ最近本格的に問題と向き合い始めました。理解しているとはいっても実際に問題を解いてみるとやはり難しいもので中々うまくいきません。やっぱちゃんと問題集を解くのって大事ですよね。大学の授業も問題演習が足りないんですよ。だから中々理解できないのではないかと思います。

何より簿記2級は商業簿記と工業簿記があり、商業簿記は前から目を通していたのでよかったのですが、工業簿記のこと忘れてた……、ということで結構詰め込みましたね。

当日のことは次回書くとしてなぜ私が資格試験を受けようと思ったのかについて最後に書かせて頂きます。一つに就活で有利になるためというのがあります。しかし、その影響は微々たるものかもしれません。一応それもわかっています。なのでそれだけではありません。普段だらだらとしている私が資格試験という目標を持つことでちゃんと勉強するんですよ。つまり、時間を有意義に使えるということです。まぁ簿記2級の内容がこの先必ず役に立つかはわかりませんが、内容云々よりも勉強したということが私を満たしてくれるわけです。悪く言えば自己満足ですよね。

そして、一番の目的は個性が欲しいということです。自分で言うのも何なのですが、私はそこそこいい大学に入り、そこそこの学部で満足していました。しかし、同じ大学同じ学部に私があまり好きではない同期が2名いるのです。ムキィー。何とかして彼らに差をつけたい、個性が欲しい、ということで資格獲得を目指しているわけです。同じ大学に同じ学部でも資格があるかないかで違うアイデンティティーを持つことができるのではないかと、彼らの上にいけるのではないかとね。

資格が全てではないことは百も承知です。でもないよりはある方が、目指さないより目指して努力する方がよいのではないでしょうか。