素人ソフィストの脳内

考え事、たまに趣味

「なぜ人を殺してはいけないか」についての持論

登場人物 ①私 ②鋭楽(私の友達)

Twitterのやり方を教えて下さい。誰をフォローするべきかわからん。」

私は最近始めたTwitterについて鋭楽に尋ねた。鋭楽にとっては面倒だったはずだが、彼は私に何かとアドバイスをくれた。

ところでこのアドバイスというのはこうするといいのではないかと他人に勧めるものであるが、それを受け入れるか否かというのを最終的に決定をするのはアドバイスをされた本人である。アドバイスした人がその人の行動を強制することは普通はできないだろう。私も鋭楽のアドバイスをまだ実践していない(どちらかというとできていない)。

また、人を起こすという行為は人の行動を決めることになるが、その人は起こされた後にまた寝るかこのまま起きて何かをするか決定できるだろう。

しかし、人を殺す行為はどうであろうか。死後の世界のことは除いて考えると殺された人はその後の行動を決定できない。つまり、人を殺すというのは他人の人生そのものの最終的な決定を行うということである。最悪生きていればほとんどの場合、起こされたらまた寝るというように行動の修正ができる。しかし、殺されてしまえばそれすらできない。

行動の決定は意思がある限り本人によって行われるべきである。だってその人の人生はその人のものであるから。とある国民的アニメの登場人物の「俺のものは俺のもの、お前のものは俺のもの」というような思考でない限りは理解できるだろう。許されない行為はいくつもあるが、人を殺すというのはそれらの行動に対してはるかに悪である。本人が決めるべき人生の結末をなぜ本人以外の人が決定してしまうのか。何の資格があって人を殺していいのか。

つまり、私は「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問に対して「人生の主な決定権はその人自身にある」という1つの前提の元で「本人でない以上お前にその資格がないから」と1つの答えを出すことにした。特に面白味も独創性もないが、これが私の考えである。

では死刑制度はどうなのかと。執行人だって他人なんだから死刑を実行する資格はないのではないかと。そこはすごく難しいところである。今の私にはそれは必要悪だと答えることしかできない。全員が人を殺さないということが実現すればその必要悪も必要なくなるかもしれないが、それは難しい話である。

追記
ドン引きされる覚悟で言いますが、女性の皆様はもっとニーハイを履くべきだと思うんですよね。あれねぇ、脚フェチの私にはたまらん。いつもじゃなくてたまに履いてほしいのです。これを友人に話したら自分には刺さらないと言っていたのでつい「それでも男か」と言ってしまいました。つまり何が言いたいかというと読者の中に女性の方がいらっしゃったら時々ニーハイを履いてみてはいかがですかということ。私が大喜びします。それではよい祝日を。