素人ソフィストの脳内

考え事、たまに趣味

「欲」という劇薬3

幸せになるには欲が必要である。欲をもって自分自身を時には他を向上させなければならない。

しかし、人が不幸になるのは欲があるためである。欲を持ち過ぎれば人は悪い方向にも変わってしまう。それは前々回の記事でも述べた。

前回の記事では人間の行動の根源はほぼ全て欲であると述べた。つまり、欲とは捨てることができないものである。ではどうすれば人は幸せになれるのか。それは底辺を知ることである。

絶望の中生きることを知っておけばこうはなるものかと欲を持って努力するし、仮に欲のせいで失敗したとしても絶望の中生きた経験を思い出せば耐えられる、自分はそんな状況でも生きてきたのだから大丈夫と思えるかもしれない。人生である程度挫折が必要なのと同じである。
挫折を知らない人が大きな挫折をしたら立ち直れない。だから挫折を知った上で努力する。

絶望を知ることで他者の痛みを理解することができるのではないだろうか。もしそうであれば欲が暴走するのを止めることができる。そういう意味でもマイナスの状況を知ることと欲のバランスが人間を幸せにするのだ。

追記
簿記の勉強で悶絶しています。終わったらまた皆さんの記事も多々読んで参ります。では。

「欲」という劇薬2

久しぶりに友人の論(さとし)の家に凸してWii Uで遊びたいのに体がついていきません……。

ここ最近こんな感じである。

確かに遊びたいのに体がついて行かない、これは自分が欲望に逆らっているのだろうか。いやそうではない。自分は欲望に従っているのだ。頭では遊びたいという欲を奏でても体は無意識のうちに「休みたい」という欲を剥き出しにしているのであろう。

ところでボランティア活動をする理由として「苦しんでいる人を助けたいから」という人がおり、またそういう人に対して偽善者だと言う人もいるのではないだろうか。

この理由の真偽がどうであれ、人間の行動の根源は全て欲なのではないだろうか。「苦しんでいる人を助けたい」も「周囲からいい人と思われたい」というのも欲である。「なんとなく」というのも一見欲がないように見えるが、これは無意識というものに従いたいという欲が根本にあるのではないだろうか。もしそうでなければなんとなく行動せず、考えて行動しようとするだろう。無意識に行動したいという欲すらも無意識かもしれない。欲に従っていないと思うときも人間は無意識に欲に従っているのだ。

もしかするとこれはすごく当たり前のことではあるかもしれない。でも私が言いたいのはどんな欲であっても結果的に人を傷つけず、または自他を救うことになる欲が大事になるということである。つまり、偽善者であろうがなかろうが、結果的に誰かのためになればそれでよいのではないだろうか。結局人間の行動はその内容は違えど欲によって動かされることに変わりはないのだから。

追記
今月からこのブログを始め、人間について偉そうに語ってきましたが、自分自身書いたことを実現できていないなと感じることがあります。口で言うだけとか文章で書くだけとかは誰でもできますけどやはり、思想というのは実践してなんぼですよね。自分にはなんというか、精神的な余裕が足りていないように思えるので読者の中でそういうことに関連した記事を書いた、もしくは知っているという方は教えて下さい。

「欲」という劇薬1

私は中学生の頃、両親に志望校を決められた。そこは当時の私にはあまりにレベルが高く、正直頭がおかしくなったのかと思った。そんな両親に私は嫌悪感を抱いており、反発していた。

しかし、自分自身のレベルが上がっていき、自分も本気でその高校に行きたいと思い勉強した末に第一希望には落ちたもの、第二希望の高校に補欠合格し、進学できた。その高校は大学付属で現在大学受験をすることなく進学できた。そのため、今では両親に心の中で感謝している。中々喋り出さなかったことで自閉症を疑われ、また喋り始めても舌癒着症でうまく喋れずいじめられていた私をここまでサポートしてくれたおかげで今の自分がある。

母親によると「(○○高校に行かせたいという)あなた達の欲を俺に押し付けるな」という私の一言に傷つけられたそうだ。確かにそれが彼らの欲であったことは間違いではないと思うが、その欲が結果的に私を救った。欲を満たすために人間は努力する。そして人は向上する。それは自分であれ他人であれ。

しかし、一方で欲は自他共に傷つけることがある。一番大きな例を挙げると戦争である。戦争が起こった原因を一概に説明するのは困難ではあるが、全ての根源には欲があるのではないだろうか。経済のために生活のために賠償金が欲しい、植民地が欲しい、そういった自分のために他人の苦しみを考えない卑しい欲望である。

また、簡単な人間関係でも相手にこうして欲しいという欲望はあるだろう。好きな人には自分と付き合ってほしいし、大切な人には長生きしてほしいし、嫌いな人には目の前に現れてほしくないし……。それを持つことは悪ではないが、それを押し付けすぎたり、それが満たされないことで相手に不快な態度を示したりするのが問題なのである。私もそうしてしまうことがないわけではない。

相手に向けた欲にも相手のためになる欲と相手を傷つける欲がある。また、自分に向けた欲の場合も同様である。欲とは良薬にも毒薬にもなるのでなり、その効能は異常だ。相手のためになる欲なのかよく考えてみよう。そうでないなら心に閉まっておくべきだ。

追記
ちょっと遅めの誕生日プレゼントということでカシスリキュールとオレンジジュースのセットとじゃがビーを頂いたので最近の晩酌にしてます(ついこの前20歳になったばかりなのにおっさん感が…)。いやー、誕プレはいいよなぁ~。
母からは時計を父からは万年筆を貰いましたが未だ使えておらず……。
勿論使いますよ。うん。まだ機会がないだけ。うん。

1+1は味噌スープかもしれない……

Twitterで1+1は味噌スープと答えている意味不明な画像を見かけた記憶がある。当時は何言っちゃってるのかと思ったが、これもよく考えてみると間違えてはいないかもしれない。

まず、+の定義であるがこれをどう解釈するかが鍵である。普通は「数を足し算する」という意味であるだろう。だがこれを「物体と物体をぶつけ合わせる」や「混ぜ合わせたり、追加したりする」という意味と解釈できなくはないだろうか。

次に1の定義である。文章問題では「1つのみかん」というように指定されているが、ただ1+1では何が1つなのかが明示されてないため、煎餅が1つとも本が1つ(1冊)とも解釈できなくはないだろう。

では1つ例を挙げてみよう。先程のように1を煎餅とし、+をぶつけ合わせるとするとどうなるか。割れる。割れれば元々の形は残らないので元々の形で煎餅1つとするならば結果は0であるし、欠片をも煎餅1つとするならば2よりも多い数になることもあるだろう。つまり1+1で2ではないいくつもの答えが出る可能性が解釈次第で存在してくるのである。

そして、1つ目の1を味噌として2つ目の1をお湯として「混ぜ合わせたり、追加したりする」という解釈をすれば味噌スープが出来上がるのである。

屁理屈だと思う人が大半であろう。しかし、重要なのはこれが正しいかどうかではなく、解釈次第では普通ではありえないことも言えてしまうということである。常識を疑う価値もあるということがわかるだろう。

追記
昨日はバレンタインデーでしたが、皆さんはチョコ貰いましたか?私は母以外の女性からは1つもチョコを貰えず……。
悲しかったので男3人でチョコを買って慰め合いをしたのですが、そのとき1人にこんなドッキリを仕掛けてみました。
①メルキーキッスのイチゴ、プレーン、抹茶の3種類の味を目隠しをして食べて見分けられるかというゲームを持ち出す。(そんなのわかるに決まっているだろうと言われそうなので自分の味覚が最近疑わしいこととイチゴはわかりやすいけどプレーンと抹茶が意外とわかりづらいということを伝えた)
②これを仕掛人仲間に普通にやる。
③ターゲットに同じ事をするが、1つ目と2つ目はプレーンと抹茶を食べさせ、3つ目にイチゴが来ると思わせたところでこっそり買ったカカオ95%の結構苦いチョコを食べさせ反応を見る。

持たせてしまうと形でばれてしまうので本人には持たせずに他の人が口に入れるという形でやりました。くだらないドッキリでしたが、結構うまくいきました。皆さんも是非やってみてください?

肉を使わずに美味しい料理はできるか

どうも、素人ソフィストです。

いつもは考え事について書くのですが、今回は番外編として私の趣味についてです。

私の趣味の1つが料理なのですが、最近塾バイトが忙しく、中々できませんでした。今週の木曜日、ついに休みがキターっ、ということで久しぶりに料理をしてみました。

今回の料理のテーマは「肉を使わずに満足感を出す」ということでした。私は本当は肉が大好きでベジタリアンというわけでもないのですが、前々から食肉のために殺されてしまう動物がかわいそうに思ってしまい、いつか宮沢賢治のように肉を絶とうと考え、やってみました。勿論若いうちは命に感謝して肉を食べようとは思うし、私一人が肉を絶ったところで動物達が殺されることに変わりないこともわかってはいますが……。

さて、完成品がこちら。f:id:shiroutosophist:20210213111211j:plain

・季節の移り目ごはん
・出汁サラダ 金山寺味噌
・出汁巻き卵
・焼き野菜 バルサミコソース風
・揚げ出し豆腐

となっています。肉を使わないのでたんぱく質を卵と豆腐に頼っております。また、無機質のわかめを使おうとスープを作ろうとおもったのですが、時間がなく……。一応簡単に作り方を載せておきます。

・季節の移り目ごはん
しょうが……適量 舞茸……適量 蓮根……適量
醤油……適量 顆粒だし……適量
みりん……ちょっと 酒……ちょっと
米と一緒に炊く。

・出汁巻き卵
卵……3、4個 顆粒だし……適量 醤油……ちょっと
砂糖……ちょっと 塩……ちょっと 水……ちょっと
混ぜて焼いて巻く。

・焼き野菜 バルサミコソース風
玉ねぎ……適量 蓮根……適量 ヤングコーン……適量 ホワイトマッシュルーム……適量 舞茸……適量
にんじん……適量
これらをオリーブオイルをひいて焼く
バルサミコソース風
トンカツソース……適量 酢……適量 赤ワイン……適量 塩コショウ……ちょっと
ソース、酢、赤ワインを煮詰めて最後に塩コショウを少し乗せる

・揚げ出し豆腐
豆腐……1パックの半分で1人前 小麦粉……適量
出汁
醤油……適量 みりん……適量 水……適量 顆粒だし……適量 刻みネギ……適量
豆腐を小麦粉をつけて上げて出汁を煮詰めて合わせる

・サラダ
にんじん……適量 玉ねぎ……適量 蓮根……適量 水菜……適量 金山寺みそ
揚げ出し豆腐であまった出汁でにんじん、蓮根、玉ねぎを煮て水菜の上にぶっかけて金山寺みそを乗せる

ざっとこんな感じです。まぁ、全体的に味が薄かったのが改善点です。ここまで読んでくださりありがとうございました。よい週末をお過ごし下さい。

「なぜ人を殺してはいけないか」についての持論

登場人物 ①私 ②鋭楽(私の友達)

Twitterのやり方を教えて下さい。誰をフォローするべきかわからん。」

私は最近始めたTwitterについて鋭楽に尋ねた。鋭楽にとっては面倒だったはずだが、彼は私に何かとアドバイスをくれた。

ところでこのアドバイスというのはこうするといいのではないかと他人に勧めるものであるが、それを受け入れるか否かというのを最終的に決定をするのはアドバイスをされた本人である。アドバイスした人がその人の行動を強制することは普通はできないだろう。私も鋭楽のアドバイスをまだ実践していない(どちらかというとできていない)。

また、人を起こすという行為は人の行動を決めることになるが、その人は起こされた後にまた寝るかこのまま起きて何かをするか決定できるだろう。

しかし、人を殺す行為はどうであろうか。死後の世界のことは除いて考えると殺された人はその後の行動を決定できない。つまり、人を殺すというのは他人の人生そのものの最終的な決定を行うということである。最悪生きていればほとんどの場合、起こされたらまた寝るというように行動の修正ができる。しかし、殺されてしまえばそれすらできない。

行動の決定は意思がある限り本人によって行われるべきである。だってその人の人生はその人のものであるから。とある国民的アニメの登場人物の「俺のものは俺のもの、お前のものは俺のもの」というような思考でない限りは理解できるだろう。許されない行為はいくつもあるが、人を殺すというのはそれらの行動に対してはるかに悪である。本人が決めるべき人生の結末をなぜ本人以外の人が決定してしまうのか。何の資格があって人を殺していいのか。

つまり、私は「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問に対して「人生の主な決定権はその人自身にある」という1つの前提の元で「本人でない以上お前にその資格がないから」と1つの答えを出すことにした。特に面白味も独創性もないが、これが私の考えである。

では死刑制度はどうなのかと。執行人だって他人なんだから死刑を実行する資格はないのではないかと。そこはすごく難しいところである。今の私にはそれは必要悪だと答えることしかできない。全員が人を殺さないということが実現すればその必要悪も必要なくなるかもしれないが、それは難しい話である。

追記
ドン引きされる覚悟で言いますが、女性の皆様はもっとニーハイを履くべきだと思うんですよね。あれねぇ、脚フェチの私にはたまらん。いつもじゃなくてたまに履いてほしいのです。これを友人に話したら自分には刺さらないと言っていたのでつい「それでも男か」と言ってしまいました。つまり何が言いたいかというと読者の中に女性の方がいらっしゃったら時々ニーハイを履いてみてはいかがですかということ。私が大喜びします。それではよい祝日を。

今あなたがこの記事を読んでいるのはたまたま?運命?

登場人物 ①私 ②待静(私の友達。イラッと来るほど落ち着いている。深くは考えないタイプの人間) ③鋭楽(私の友達。普段は鉄道やアニメ、ガンプラと幅広いジャンルのオタク活動を穏やかに送る一方必要な時には頭がキレる強者)

今日は私が密かに楽しみにしている友達2人との通話の日。夜11:00から始まるのだが、寝落ちしてしまい危うく遅刻しかけた。幸い時間にはかなりルーズなグループなので助かったが…。

「ごめんごめん、寝落ちしててギリギリになったわ」
「かまへん」
「あざす、ところで2人に聞きたいんだけど俺って遅刻せずに済むことって可能だったと思う?」
「どういうこと?」
「俺が寝落ちしたのは昨日夜遅くに寝たからなんだけどさ、もし俺が早く寝ていれば寝落ちすることも遅刻することもなかったのかなって」
「まぁそうなんじゃない?」
待静は声色を変えずに言った。
「でもそう思えるのはあくまで過ぎたことだからであってその行動をした時点ではそうする以外の選択肢はなかったとは考えられないのかな?」
「いくつもある選択肢から人間の行動が選ばれて組み合わせられることで今に至るかすべて定められた行動の組み合わせで今に至るか、つまり偶然か必然かということ?」
鋭楽の言うことは私の聞きたいことと全く同じことであった。

結局この通話の中で答えが出ることはなかったが、前回述べた見え無い秩序というものがあるとしたら必然説はあり得る。人間は意識によって行動を変えられるという人もいるかもしれないがその意識を変えることさえも事前に定められた運命とも考えられる。しかし、根拠もないことなので確かなことは言えない。ただ、どちらにせよ我々がやるべきことは何をするべきか、何をしてはいけないかを考え行動することだ。必然説でやってはいけないことをしてしまう定めであるならばそれを打ち破り正しいことをするように目指すべきだし、偶然説であればいくつもある選択肢から正しい道を考えて選んでいくのが我々が必要とする生き方だと私は考える。

皆さんはどう考えるだろうか。

追記
記事は次の記事が書き終わり次第出します。つまり不定期ということですができるだけたくさん出したいと思ってます。また、コメントがあると私は多分喜びますので見た方は感想か何か気軽にください。私もこれから他の人の記事を色々と見て参ります(まだあまり見れてない……)。あとTwitterも白井忠彦という名前でやっております(始めたばかりでほとんど何もしてませんが)ので見かけたら宜しくお願い致します。